top of page

鈴木 真

  • X
  • Facebook

合同会社ローカルドア 代表社員

【一歩進みたいあなたに寄り添うコーチング】

ひとり親家庭で育ち、小学校不登校と高校中退を経て高認を取得、その後立教大学経済学部卒業。自治体で約12年間、保育事業や住民との合意形成、中小企業支援業務等に携わりつつ、NPOではまちづくりや人材育成に関わってきた。2024年1月に独立。

 

自らの生い立ちやパブリックセクターに関わってきた体験を活かし、コーチングを通じてクライアントが自らの力を引き出し、自分自身を人生の主人公として一歩を踏み出せるよう支援している。

【保有資格など】

都市経営プロフェッショナルスクール公民連携課程修了

ORSCC(CRR Global認定 組織と関係性のためのシステムコーチ)

Leadership Circle®認定プラクティショナー

お問い合わせ:goodpwlife@gmail.com

0004_original.jpg

​両親の離婚と不登校のはじまり

平成元年(1989年)に横浜の平凡な家庭に生まれました。両親ともに祖父母の代から横浜に住み3代目となりますが、日本各地からの移住者が山を切り開いて創り上げた横浜という都市が持つ、「三日住めばハマっ子」と呼ばれるオープンマインドな気風に影響を受けながら育ちます。

代えがたい平凡な幸せの中でしばらく暮らしますが、小学校に入ってすぐの頃、両親の離婚によって環境が変化します。当時阪神淡路大震災の映像がテレビでよく放映されていたこともあり、地震の映像と、「身近な親族である父が突然いなくなる」という体験がリンクしてしまいます。そのことによる漠然とした不安感情は、以後長いこと付きまとうことになりました。

また、小学校2年生の頃には不登校になります。当時は「登校拒否」から「不登校」に呼び名が変わったばかりの頃で、今ほど不登校児童の数が多くはない時代でした。それから4年間不登校を続け、小学校6年生の途中に当時の恩師の支援を受けて学校に戻ることになります。

高校中退と高認からの再起

中学校には3年間通いましたが、この頃から自然と頭の中で内省を深めていく癖のようなものがついてきます。そのため、様々な「社会のお約束」を教え込み、「なぜルールが必要なのか」という問いの許されない当時の学校生活には馴染むことができませんでした。

湘南にある平凡な高校に進学しますが、そこでもやはり馴染むことができず、1年だけ通って中退します。自分で中退という道を選んだものの、人生のどん底に落ちて、このまま這い上がることはできないかのように感じていました。

そこで、再起をかける手段として大学進学に向けた受験勉強をはじめることにしました。その時はちょうど「大検」が「高認」に変わったタイミングであり、1年間高校に通って多くの単位を取得していたため、およそ3か月ほどかけて、2科目(生物と世界史)のみを受験するのみで高認を取得することができました。

そこから大学受験までは1年半ほどの時間がありました。自ら勉強計画を立て、コツコツと受験勉強に明け暮れる日々が続きます。結果的に2007年に立教大学経済学部に合格することができ、この成功体験は「自分の道を自分で決めて進む」という信念に繋がっていくことになります。

自由を得た大学生活と祖父の死

IMG_1463_edited.jpg

大学生活では今までに感じたことのなかった自由を謳歌し、この頃から「自分の人生の主人公としてスタートした」という感覚を持つことになります。

大学生活の終盤以降は、海外でバックパッカーの旅にも出ることができました。ヨーロッパを鉄道で周遊したり、ラオスで同じく旅していた妻と出会ったり、ウズベキスタンの広大な砂漠の遺跡をタクシーで巡ったり・・・

​普段と違う文化の世界や人々と触れ合うことは、自分が何者であり、何にとらわれていたのかを感じるヒントにもなりました。「新しい世界へのドアを開ける」というコンセプトの原体験でもあります。

一方で、ひとり親家庭で育つ私の学費を支援してくれた祖父は、事故によって大学在学中に他界します。温厚で思いやり深かった祖父の死は、私に時間の有限性を教えてくれました。時間が限られているからこそ、自分の人生を歩むべきだと深く感じることになります。

パブリックの仕事と挫折

2011年には川崎市役所に入庁します。住民と協力し対等な関係で都市を育むまちづくりに憧れ、基礎自治体への就職の道を選びました。

ところが、配属先は徴税に関する業務を取り扱う部署でした。「権力を行使しなければならない」仕事であり、また住民とは利害関係が対立する分野を取り扱う仕事でもあります。時に税金滞納者に胸ぐらを掴まれるなど、暴力的なふるまいを窓口で受けることもありました。一方、ここで様々な生活環境に置かれた方々と対話したことや、暴力的なふるまいにも屈しない姿勢を身に着けたことは、後々とても血肉になったと感じています。

その後は保育行政の分野でハードワークをこなした後に、入庁から7年目にして、ついに市民協働のまちづくりに関わる仕事を任されます。しかし、自分の至らなさから、周囲との関係性に行き詰まり挫折を経験することになります。そのタイミングで出会ったのが、コーチングです。

コーチングとの出会いと衝撃

この時に状況を打開するためには何らかのアクションが必要だと感じ、直感的にコーチングという言葉に惹かれ、学びをスタートさせました。結果的にそれは間違いではなく、普段用いているロジカルな思考だけではなく、感情や身体感覚もフルに活用するコーチングというものに衝撃を受けることになりました。

​近所の飲み仲間がコーチングの大先輩だったというご縁もあり、そこからORSC(関係性などを取り扱うシステムコーチングという概念)の学びを本格的にスタートさせることになります。

コーチングはクライアントとの対等な関係の中で、セッションを進めていきます。コーチとしてクライアントの方にお渡しした「問い」は、コーチである私にも必ず帰ってくるのです。コーチである私が一方的にクライアントの方を変化させる、というようなことではなく、私自身もクライアントの方によって変化へといざなわれていきました。

​結果として、私は父親と25年以上ぶりに再会を果たし、子どもの頃からずっと付きまとっていた漠然とした不安感情に終止符を打つことができました。

まちづくりの世界に飛び込む

コーチングを学ぶと同時に、まちづくり界隈の虎の穴である、都市経営プロフェッショナルスクールで本格的にまちづくりについても学びをスタートさせます。

地域課題を解決するために、事業やお金といったリアリティとしっかり向き合って実践をしていくスクールです。ここで経営やお金といったリアリティを学ぶとともに、日本全国に数多くの同志を得ることができました。今でもお互いの地域を行き来しつつ、切磋琢磨したり、地域や事業の悩みの相談をしあったりしています。

また、ここで出会った方々にコーチングをさせていただく機会も頂戴することができました。"パブリック"というステークホルダーの多い環境下では、強いストレス下にあっても内面をメンテナンスし、より力強く歩みを進めていただくために、コーチングによってお役に立てることが多いと実感しました。

自分の力を最大限に活かすため独立へ

その後しばらく、自治体に在籍しながらもNPOを通じてコーチングや人材育成プログラム、また組織開発プログラムを提供させていただく日々を送っていました。ベンチャーなどの民間企業、また政治の世界などにもコーチングを通じて知見を広げる機会を得ることができました。

この頃は自分自身、今後のキャリアについて迷いがありました。しかしある時、私のコーチングの師に、私自身の心の奥にある願いを引き出していただき、独立しこの道を究めることで、社会と地域に価値を還元することを選びました。

​これまでの私の人生のリソースを全て使い、クライアントの皆様がご自身の人生の旅路を進めていくためのお役に立つことが、私の願いです。なぜなら、それが私自身の人生のステップを進めることにも繋がると確信しているからです。

bottom of page